精神の老いと心の介護
90代の祖母が一人では生活できなくなり、
先日70代の両親宅に迎え入れた。
様子を見に行ったら、
祖母は綺麗な白髪でよく笑う。
しかし足が痛くて一人で歩けない。
耳も、補聴器をしていて辛うじて聞こえはするが、複数人の会話についていけない。
目も、よくは見えない。
・・・これまであんなに明るかった祖母は、世話になっている自分を責めていた。
喋ろうとすると目を静かに潤ませ口が震えていて、
何もできない自分を辛そうにしていた。
こんな祖母は初めで見た。
相変わらず穏やかで優しくて上品な可愛い祖母。
目はまだ生きている。
何か楽しめることがあればいいのにとiPadのゲームなど見せる、話を合わせてくれたのか最初は面白いねぇって笑ってくれたけど関心は長くは続きそうにない。
TV漬けの毎日。
物理的な介護は色々確立されているけど、
生きる希望、精神的な介護ってどうしたらいいんだろう。
自分は以前、デイサービスで働いていたことがある。体が動かなくても気持ちが元気な人は、介護する方もやりがいがあった。
でも心が老いに負けそうになっている場合、本人も辛いし、介護している人もやり切れない。「もう死ねたらいいのにな」「そんなこと言わないでください、大丈夫ですよ」って、本人が絞り出した言葉を否定する日々。自分のやっていることはこれでいいんだろうかと。だからといって相模原の事件は正しいはずもなく悲壮すぎる歪みの爆発だ。
ただ、人としての尊厳を保てなければ、介護されていても幸せとは言えないとは感じる。
祖母も言っていた、もう生きていてもしんどいわぁって。
いるだけでいいのに。何もできなくても。
殺すわけにもいかない。本当は最期まで笑っていて欲しい。
介護をしているのは離れて住む私ではなく親だから、簡単に言える。親も、辛いだろう。死ねたらいいのにって程に、自己肯定感が低くなり震えている自分の親と向き合う毎日は。
安楽死、自分の意思で選ぶことができたら、人間の尊厳を守れるのだろうか。日本では難しい?って議論を読んだことがある。
自殺をするにも体力気力がいる。祖母にそんな力はない。
周りからの圧力で安楽死に向かうのを避けるために認められていないとすれば、自殺する体力気力のある若者が画一的競争社会からの圧力でどんどん死んでいくのを放っておくことと、根底の問題は共通しているように思う。どちらも政治や社会から目を逸らされている。
精神の老い、精神の介護、
自分が老いた時にはどうしたいだろう、どうして欲しいだろう。
祖母は毎晩日記を付けていた。軽い物忘れの対策に、と、自分の意思で。