ഇങ്കോ

インコに向かって呟くだけの鳥籠🦜

生身の人間ってもっと大切にすべき存在

 

愛を伝えたいのにネガティブになったり、周りくどくなったり、萎縮してしまったり、

 

辛い、悲しいって感じてそこに沈殿してしまうのなんだろう。趣味か。

 

嬉しさに沈殿するのも良し。

 

すぐに死にたいってなってしまうのなんだろう。

デジタルコミュニケーションにおいてそうなってしまう。

 

生身の人間ってもっと大切にすべき存在なんだ。いくらデジタル上で自分にとって必要ない存在だとしてリムーブしても、その人は、大切な、生きるべき存在なんだ。

 

フォロー、リムーブ、ファボ、リツイート、そういうものに、人の存在価値を結び付けない。

 

ウェブ上の数字とお金や仕事の価値は結び付けていい。

それと、人の価値は、別なんだよな。

 

 

 

 

 

種なし柿

 

種があってもいいのにって思って、

 

探すけれど、種なし柿しかスーパーに売ってない。

 

柿に限らず他の果物にも言えるけれど・・・

 

 

種なし柿、安全だって言われるけれど、

 

直感的には不自然で、もし選べるなら種あり柿の方がいいと思う。自分の場合はだけど。

 

不妊治療をしている人がものすごい多いって言うけれど、

 

そして原因不明って言われるけれど、

 

こういう食べ物って関係ないのかな。

 

添加物とか普段いろんなものにさらされているけれど、

そういうの関係ないのかな・・・

 

こういうこと言うとトンデモって言われるのか。

 

 

あんなにも種なし柿が毎日たっっっくさん積まれているならば、

 

せめて種あり柿も選べたらいいのに。

 

 

 

 

 

 

 

オタク活動の豊かさ

何かにどっぷりはまってときめいて、

 

ないものを作って、シェアし合って、応援して、

 

クリエイティブに活き活きしているのって、

 

本当に豊かだと思います。

 

文学だって、芸術だって、他にも色々。そうですよね、何かを楽しめる方法を知っている人は、

 

周りの環境がどうであろうと、豊かです。

 

土を踏んで自分で野菜を作ったりすることも。

 

あとは何があるでしょう、色々ありますね。

 

話がどんどん拡がっちゃいましたけど、

 

オタク活動のエネルギーの健康や充足感への貢献度は凄いと実感。

 

 

 

 

 

 

精神の老いと心の介護

 

90代の祖母が一人では生活できなくなり、

 

先日70代の両親宅に迎え入れた。

 

様子を見に行ったら、

 

祖母は綺麗な白髪でよく笑う。

 

しかし足が痛くて一人で歩けない。

 

耳も、補聴器をしていて辛うじて聞こえはするが、複数人の会話についていけない。

 

目も、よくは見えない。

 

・・・これまであんなに明るかった祖母は、世話になっている自分を責めていた。

 

喋ろうとすると目を静かに潤ませ口が震えていて、

 

何もできない自分を辛そうにしていた。

 

こんな祖母は初めで見た。

 

相変わらず穏やかで優しくて上品な可愛い祖母。

 

目はまだ生きている。

 

何か楽しめることがあればいいのにとiPadのゲームなど見せる、話を合わせてくれたのか最初は面白いねぇって笑ってくれたけど関心は長くは続きそうにない。

 

TV漬けの毎日。

 

物理的な介護は色々確立されているけど、

 

生きる希望、精神的な介護ってどうしたらいいんだろう。

 

自分は以前、デイサービスで働いていたことがある。体が動かなくても気持ちが元気な人は、介護する方もやりがいがあった。

 

でも心が老いに負けそうになっている場合、本人も辛いし、介護している人もやり切れない。「もう死ねたらいいのにな」「そんなこと言わないでください、大丈夫ですよ」って、本人が絞り出した言葉を否定する日々。自分のやっていることはこれでいいんだろうかと。だからといって相模原の事件は正しいはずもなく悲壮すぎる歪みの爆発だ。

 

ただ、人としての尊厳を保てなければ、介護されていても幸せとは言えないとは感じる。

 

祖母も言っていた、もう生きていてもしんどいわぁって。

 

いるだけでいいのに。何もできなくても。

 

殺すわけにもいかない。本当は最期まで笑っていて欲しい。

 

介護をしているのは離れて住む私ではなく親だから、簡単に言える。親も、辛いだろう。死ねたらいいのにって程に、自己肯定感が低くなり震えている自分の親と向き合う毎日は。

 

安楽死、自分の意思で選ぶことができたら、人間の尊厳を守れるのだろうか。日本では難しい?って議論を読んだことがある。 

 

自殺をするにも体力気力がいる。祖母にそんな力はない。

 

周りからの圧力で安楽死に向かうのを避けるために認められていないとすれば、自殺する体力気力のある若者が画一的競争社会からの圧力でどんどん死んでいくのを放っておくことと、根底の問題は共通しているように思う。どちらも政治や社会から目を逸らされている。

 

精神の老い、精神の介護、

 

自分が老いた時にはどうしたいだろう、どうして欲しいだろう。

 

祖母は毎晩日記を付けていた。軽い物忘れの対策に、と、自分の意思で。

 

 

 

 

信頼や時間や個性のようなお金で買えないものの価値

資産経済の割合が大きくなってお金が滞留していき、

投資先が枯渇していって、

相対的にお金の価値そのものが下がり続けている。

お金で買えないものの価値が相対的に上がってきている。

 

この本を読みました。

佐藤航陽「お金2.0  新しい経済のルールと生き方」

自分のために読んだことをおさらいしたくて書いています。

お金2.0 新しい経済のルールと生き方 (NewsPicks Book)

お金2.0 新しい経済のルールと生き方 (NewsPicks Book)

  • 作者:佐藤 航陽
  • 発売日: 2017/11/30
  • メディア: 単行本
 

 

この”価値”をやりとりする方法はお金である必要はない。

価値を最大化しておけば、色々な方法で好きなタイミングで

他の価値と交換できる。

フォロワー、貯金、データ、信頼、どの方法で価値を保存するか。

ネットの普及がそれを可能にした。

 

今後は可視化された「資本」ではなく、お金などの資本に変換される前の「価値」を中心とした世界に変わっていく

 

 

 著者はこれを「資本主義(capitalisum)」に対して

「価値主義(valualism)」と呼んでいる。

 

それ、お金になるの?と言う問題が、

この価値主義ではちゃんと意味を持つようになる。

 

実用性で計られていた世界から、倫理的・精神的な豊かさがちゃんと意味を持つ世界になっていく。 ネットワークなどのソーシャルキャピタルも資産として強くなっていく。ポジティブな普遍性の全てが対象になるってこと。

 

資本を最大化することから、価値を最大化することに焦点が移ると、お金の価値が小さくなっていく。しかし既存の経済が悪いというのではなく、並存し、複数の経済システムの並存の中で自分に合うものを「選べる」!世界へ。優劣を決めたり押し付ける必要もない。そこには複数の経済圏に生きることができる安心感がある。

 

トークンについてもたくさん書かれていましたが今の自分には難しかった。向いていないということかもしれない。

 

「儲かること」から、「情熱を傾けられること」へ。

頷きながら読んでいました。

しかもその情熱というものは今はネットで一瞬で伝わる。

 

この世界で活躍するためには、他人に伝えられるほどの熱量を持って取り組めることを探すことが、実は近道と言えます。そして、そこでは世の中の需要だったり、他の人の背中を追う意味は薄くなります。なぜなら、内面的な価値ではオリジナリティ、独自性や個性が最も重要だからです。

 

自分は何を1日中していても苦痛に感じないだろう?こういうことをよく考えていても、一人で考えていると少しずつ不安になってくることもしばしばだった。けどこの本はそんな疑心暗鬼を吹き飛ばして追い風をくれました。

 

人間の心は放っておくとすぐ錆びる。自分のメンテナンスはもちろん、他人の情熱を刺激してサビを吹き飛ばしてくれる人にも大きな価値がある。

 

個人の「価値」を高めるために働くと、年収や人気とは違う優先順位が見えてくる。そこで働いた後に自分の価値が高まっているかどうか。

 

枠組みの中での競争から、枠組み自体を作る競争へ。

自分の情熱と価値を大切に育てていくこと・・・

本当にふに落ちる金言ばかり。

テクノロジーによってお金や労働から完全に解放された暁には、

 

「ひいじいちゃんの時代には1週間のうちのほとんどをやりたくもない仕事をしていたらしいよ」

 

また、シンガポールの歴史やエストニアにも興味が湧きました。

 

著者は更に未来の展望を、テクノロジー、現実の捉え方の可能性まで、めくるめく繰り広げています。宇宙にまで。楽しいです。

 

格差はただの物理現象。お金はツール。著者はこの本を書いている過程も彼にとっては熱中できて刺激が大きい行為で、快楽物質が分泌され他の何よりも楽しかった、って。まさに実践されていました。面白い。

 

人間の熱狂は伝播するもの。

非常に面白かったです。

 

お金2.0 新しい経済のルールと生き方 (NewsPicks Book)

 

鶴見済「0円で生きる」を読みました

『居場所』って、

循環させることができる場所が自分にあるということなのかもしれない。

と思いました。

 

 

鶴見済 「0円で生きる」

0円で生きる: 小さくても豊かな経済の作り方

0円で生きる: 小さくても豊かな経済の作り方

  • 作者:済, 鶴見
  • 発売日: 2017/12/18
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

地球上にあるものはもとより全てが共有物だった

 

あらゆるものの私有化を推し進めた資本主義に対して、無料の生活圏を作りお金への依存度を下げる、その方法が具体的に書かれています。

 

あ、こんな視点があったのか、そうだよな〜って読みました。

 

贈る、

あげる、

もらう、

循環させる、

不用品ショップ、

居場所が生まれる、

泊める、

泊まる、

パブリックドメイン

CC(クリエイティブ・コモンズ)、

貸し借り、

共有、

オルタナティブな経済圏をつくる、

フリマ、

助け合い、

自助グループ

行政の再分配を貰う、

図書館、公演、霊園、公民館、大学キャンパス、

市民農園、博物館、見学会、

拾う、

家庭菜園、

野草採取、

鳥を観察、

神への贈与・・・

 

 

お金儲け至上主義に対置するものとしての「贈与経済」(ギフト・エコノミー)。お金を使うことは人間関係の省略でもあるという文言には頷きます。

 

どっちが良いという話ではないんですね。人間関係の省略 or 濃い人間関係を押し付けられるしか選択肢がないんじゃなくて、自分で付き合いの頻度や距離まで決められる緩い関係の可能性をここでは提示されている。

 

社会の仕組みに馴染めなかったり、今は好みのつながりや居場所のない人(私です・・・・)、行動のヒントが見つかりそうです。

 

自分はこの本を読んだ後にとりあえず野草を摘んで食しました。

(野草に関しては毒もあるので注意が必要です)

 

0円で生きる: 小さくても豊かな経済の作り方

 

twitterも面白いです。


同じ著者が昔に書いたこの本も気になります。

人格改造マニュアル

人格改造マニュアル

 

 

 

 

「監視資本主義 デジタル社会がもたらす光と影」見ました

Netflix「The Social Dilemma」(原題)2020年。

 

 

sns中毒による鬱から政治の分断まで、googlefacebookなどの錚々たる巨大企業の内部にいた人たちが、このままではいけないと、次々に問題を説明してくれる映画。

 

なぜこうなってしまったかというと、お金が必要だから。より多くの広告を見せるために。少しでも長く止まってもらう必要がある。

 

解決に向けての提案が、法による規制はともかく、スマホを捨てて外に出ること、snsを消去することってことに向かっていて、結局そうするしかないのか〜っ

 

でも映画でももちろん言われているけれど、snsは知らない情報を得たり好きなものや人に出会えたり自分の発信を広められたり、良いところがたくさんある。

 

法が整うまでは、自分で納得のいくコントロールをしたいって思いつつも、なかなか難しいんですよね。仮に1日に3回しか見ないぞって決めても、ついつい気になって見てしまうということ自体、立派な中毒者なのでしょうね。まずは自覚から。

 

古いスマホを持っていた時、バッテリーの劣化ですぐに充電が減るから(外出時は特に)できるだけスマホを見ずに過ごしていた時期があったのですが、あの時は確かに少しスマホ断ちできていた気がします。不可抗力は強いですね・・・。

 

中毒の何がいけないって、反応が気になってのびのびと行動できなくなることや、四六時中チェックしてしまうことで過剰な情報にまみれて頭がいっぱいになること、そういうことに人生の時間の多くが消費されてしまっていること。(そして映画では政治思想の二極化や民主主義の劣化が描かれているわけです。)

 

スマホを絶っても、PCで開くことができる。クリックをするかしないか。目的を持って接することができるか。

 

承認欲求を満たすいいね、などの仕掛けは麻薬でもあって、脳のドーパミン分泌に直結している。中毒になってしまう原因はわかってもコントロールするには、気合でどうにかなる段階は過ぎているのかも。

 

自分がsnsから得ている情報とは何なのか。

 

最初の”お金が必要”に関して言えば、搾取され消費する側であるだけでなく、提供する側になることも大いにあるネットの世界。清濁両方を自覚して、溺れないで泳げということですね。しかし巨大企業はたくさんの人を溺れさせることで安定して利益を得てきた。自分も溺れている一人です。それでこの映画を制作するということは政治や社会問題に及んであまりにも危機に向かっているからなのか、もしくはこの危機提唱自体が美味しいコンテンツになるからなのか。

 

自分の子供に勧めないって意見だって、清潔な環境で育ったあまりに親の手を離れてから急に溺れることもあるかもしれない。

 

光あるところに影、あり。